『ねこ』の語源を考える⑮

唐猫は舶来の猫か?

 『からねこ』について、辞書にはこう書かれています。

①からねこ【唐猫】舶来のネコ。上流社会で珍重愛翫された。のちには一般のネコにもいう。(岩波古語辞典)
②からねこ【唐猫】(中国から渡来したことから)舶来の猫。(大辞林
③からねこ【唐猫】(中国から伝わったからいう)猫に同じ。(広辞苑

 この三種の辞書の説明は微妙に違っていて、②③が中国から渡来したとしているのに対し、①は中国とは書いていません。中国以外の地域である蓋然性にも含みを持たせた書き方です。
 また①②が猫のうちの舶来のを特に『からねこ』と呼んだとしているのに対して、③は唐猫=猫としているという違いもあります。
 広辞苑が唐猫=猫としているのは、広辞苑が基本的に現代語の辞書であって、現代語における『からねこ』の意味を記述すれば良しとしているからなのかも知れません。
 源氏物語の「からねこの、こゝにたがへるさましてなむ侍りし」(若菜下)という記述からみて、紫式部が『からねこ』を和猫とは違うものと意識していたことは確かで、広辞苑の説明は古典には当てはまりませんから。
 それでは『からねこ』は本当に中国から渡来した猫なのでしょうか。
 まずは『からねこ』の最古の用例に当ってみましょう。『からねこ』の最古の用例は✱花山院の次の歌のようです。
  敷島の大和にはあらぬからねこを
  君がためにぞ求め出でたる(✱✱夫木集)

✱(968〜1008)第65代天皇。在位984〜986。冷泉天皇の第一皇子。
✱✱夫木和歌集は鎌倉時代末期1309年頃の成立。藤原長清編。花山院の時代より200年以上も後の成立ですが、この花山院の歌は古い資料に拠っているものと考えられます。

 この歌は花山院が、時の✱太皇太后であった✱✱昌子(しょうし)に贈った歌ですが、昌子太皇太后の没年は999年ですから、この歌が詠まれた下限は999年、そして上限は花山天皇が退位して花山院となった986年で、986〜999年の間にこの歌が詠まれたという事になりますが、おそらく下限に近い方でしょう。

太皇太后は通常は先々代の天皇の皇后。この時の天皇一条天皇ですから、本来ならば円融天皇の皇后詮子である筈ですが、詮子は皇太后として扱われていて、ここで太皇太后とされているのは三代前の冷泉天皇の皇后昌子です。これは先代天皇である花山院の在位中に皇后の冊立が無かったためのようです。なお、花山院は冷泉天皇の皇子ですが、母親は贈皇后宮藤原懐子で昌子ではありません。
✱✱(950〜999)朱雀天皇の皇女。冷泉天皇の皇后。

 『からねこ』という言葉自体は古くからあったけど、文献に残っているものの中では花山院の歌が最古だということなのか、花山院が最初にこの言葉を使った人だということなのか、を考えてみなければなりませんが、私は花山院が最初にこの言葉を使った人である蓋然性が高いと思います。
 さて、この時代に海外から猫が入って来るということが果してあり得たかどうかを検討してみましょう。
 遣唐使が廃止されたのが838年、それより早く新羅とは663年に百済・日本連合が新羅・唐連合に敗れた白村江の戦い以後国交断絶状態です。唯一国交があったのが渤海国ですが、渤海国からの朝貢品リストの中に猫は書かれていません。つまりこの時期に外国から猫が入って来たとは考えにくいのです。
 それでは何故花山院は『からねこ』という言葉を使ったのでしょうか?私はその理由は889年2月6日の宇多天皇の日記(「寛平御記」)にあると思います。

朕閑時述猫消息、曰驪猫一隻、太宰少弐源精、秩満来朝所献於先帝、愛其毛之不類云云。皆浅黒色也。此独深黒如墨。(中略)其行歩時寂寞不聞音声、恰如雲上之黒龍。(下略)

 宇多天皇が父光孝天皇から下賜された黒猫に対する愛情を述べた有名な一節ですが、ここでは黒猫が『驪猫』と記されています。黒という色を表す漢字が『黒』『黯』『黔』『黝』『黷』『玄』『黎』『緇』等数多くある中で、宇多天皇は何故あまり一般的でない『驪』の字を用いたのでしょうか?
 『黒』には「汚れた」「腹黒い」という意味もあるとか、『黯』には悲しみという意味があるというように良くない意味の字を避け、『玄』はつやのない黒を、『黎』は薄い黒をいうなど色そのものがイメージに合わない字も避けたのでしょう。
 『驪』の字は本来は黒馬という意味の字で、猫に使われた前例は無いようですが、『麗』という字を含む好字である上、黒い龍を驪龍(りりょう)という時には『驪』の字を黒いという意味で使うので、これに倣って『驪猫』という表現をしたのでしょう。
 そして愛猫の黒猫を「✱驪龍頷下之珠(りりょうがんかのたま)」に喩える気持もあったであろう事は、文中に「恰如雲上之黒龍」という表現が出てくる事からも窺えます。

✱「荘子」にある言葉で「黒い龍の顎の下にある宝玉」のこと。命がけで求めねばならない貴重なものの喩え。

 ところが「✱梁職貢図」に高句麗を高句驪と書いた例があるように、この時代の人にとって『驪』の字は高句麗を連想させる文字だったろうと思います。

✱中国南北朝時代の梁代、540年頃の成立。編纂は元帝蕭繹。梁に朝貢した各国使節の様子を図入りで記していて、百済国使についての記述の中に「高句驪」の字が見えます。

 次に『からねこ』の『から』とはどこの事なのかを考えてみようと思います。
 『から』と呼ばれた地域は時代とともに拡大したり移動したりしていて、古い順に並べると次のようになります。
  Ⓐ弁韓にあった加羅
  Ⓑ弁韓地方全域
  Ⓒ✱馬韓弁韓辰韓三韓全域
  Ⓓ高句麗及びその後身である渤海国を含めた朝鮮半島全域及び中国東北地方の一部
  Ⓔ中国
  Ⓕ外国

✱韓の字を『から』とも読むのはここから来ています。

 これらは時代が変わることに伴ってきっちりと意味が変わって行ったという訳ではなく、例えばⒷⒸⒹの三つの意味が並行して使われていたりします。
 このうち注目したいのは、Ⓓにおいては高句麗及び渤海も『から』と呼ばれていたということです。日本書紀神功紀に高句麗百済新羅が「ミツノカラクニ」と記されている事からもその事が判ります。
 こうしてみると、花山院は寛平御記にあった『驪猫』を「高句麗の猫」の意味に誤解し、かつ「高句麗の猫」の意味で『からねこ』という言葉を使い始めたのではないでしょうか。
 999年に、宮中で飼われていた猫が✱子猫を産んだ時に、皇太后詮子が左大臣・右大臣に命じて✱✱産養(うぶやしない)の儀を行わせ、子猫に従五位の位を授けて、馬の命婦を乳母(養育係)に任命するという前代未聞の珍事がありましたが、この時に生まれた子猫に、皇太后詮子は『こま』という名をつけています。

✱この時生まれた猫が、枕草子の「うへにさぶらふ御猫は」の段に登場する猫、命婦のおとど。
1000年3月のこと、簀の子縁の上で居眠りしている猫を見て、乳母の馬の命婦が「まあお行儀が悪い。中に入りなさい」と言いますが、猫が起きないので、猫をおどそうと翁丸という犬に「命婦のおとどを食べちゃいなさい」とけしかけました。驚いてパニックになった猫が、食事中だった一条天皇の所に逃げ込み、一条天皇は激怒して、馬の命婦を解任し、翁丸の犬島への追放を臣下に命じたという顛末が記されています。
この事件は源氏物語のから猫登場場面のモチーフになったかも知れません。
✱✱平安時代の風習の一。出産後三・五・七・九日目の夜に、赤児が丈夫に育つことを念じ、また邪霊祓いに粥を炊いて子供に食べさせるまねをし、その粥を四方に注ぐ。(角川日本史辞典)

 この時子猫を産んだ猫が、花山院が「敷島の大和にはあらぬからねこを…」の歌とともに太皇太后に贈ったあの「から猫」であった蓋然性は高いと思います。この年、太皇太后は亡くなっていますから、亡くなる前後に「から猫」は太皇太后の所から皇太后詮子に引き渡されていたのではないでしょうか。
 そしてその「から猫」の産んだ子が『こま』と名づけられたという事は、この時期の宮中では『からねこ』の『から』は『こま』すなわち高句麗渤海の意味と受け止められていたのだと思います。
 どうやら『からねこ』は舶来の猫ではなく、花山院の誤解に基づいて生まれた言葉のようですが、それではどんな猫が「から猫」と呼ばれたのでしょうか。
 寛平御記によれば、宇多天皇の愛猫は源精が太宰少弐の任期を終えて帰京の際に連れて来て、光孝天皇に献上したものを、光孝天皇から当時皇太子だった宇多天皇に下賜されたそうです。
 「皆浅黒色也。此独深黒如墨」と書かれている「浅黒色」とはいわゆる黒トラ猫の毛色を指すのでしょうが「皆浅黒色也」というのですから当時は黒トラ猫が圧倒的に多かったのだろうと思います。
 黒猫が珍しかったからこそ、源精もわざわざ都に連れ帰って天皇に献上したのでしょうし、宇多天皇も「此独深黒如墨」と記したのでしょう。
 花山院の贈った「から猫」も黒トラではない猫、黒猫・白猫など、当時は珍しかったであろう毛色の猫だったろうと思います。けれども「から猫」と呼ばれ、大切にされた結果、そうした毛色の猫が増えて珍しくなくなったために、『からねこ』という言葉も死語になって行ったのでしょう。


 

『ねこ』の語源を考える⑭

『たたけ』について

 「大辞林」(三省堂)には『たたけ』についてこう書かれています。

たたけ【狸】〔「たたげ」とも〕
 (1)タヌキの異名。〔名義抄〕
 (2)タヌキの毛。筆の穂に用いる。〔日葡〕

 (2)の記事があるのは大辞林だけですが、(1)については、広辞苑・岩波古語辞典・旺文社古語辞典・✱時代別国語大辞典上代編の記述もほぼ同様です。

✱時代別国語大辞典上代編は「たたけ【狸】(名)たぬき。食肉目いぬ科。東アジア特産。山地・草原に穴居する。その毛は、兎や鹿の毛とともに、毛筆の材料にした」とやや詳しく記述しています。これは上代の文献には『たぬき』の用例が無いためと思われます。

 (2)の語義は室町時代頃になって『たたけ』が『たたげ』と発音されるようになってから、『げ』の音から『毛』を連想してこのような意味が派生したものですが、(1)の「タヌキの異名」という説明には私は疑問があります。
 何度も引用してきた室町時代の辞書・挨嚢鈔にはこんな記述があるからです。

タゝゲノ筆ナンド云。タゝ毛トハ。タヌキノ毛歟。
狸ノ字ヲ。タゝゲトヨム。又子コマ共ヨム。只子コト同事也。狸(タゝゲ)ヲ猯(タヌキ)二用ハ僻事也。(中略)狸(タゝゲ)猯キハ各別也。狸ハ。猫ナルベシ。(下略)

 「(質問者)世間では『たたげの筆』などと言っていますが、『たたげ』とはタヌキの毛のことですか?(回答者)狸の字を『たたげ』と読みます。また『ねこま』とも読みます。ただ『ねこま』というのは『ねこ』と同じことです。『たたげ』を『たぬき』の意味に使うのは間違いです。(中略)『たたげ』と『たぬき』はそれぞれ別の動物です。『たたげ』とは『ねこ』のことです」
 実に明確に『たたけ(たたげ)』は猫であると言い切っています。
 またこんな記事もあります。

猫狸 猫捕鼠也、貍狸也、又云野貍、倭言上尼古、下多々既(新訳華厳経音義私記)

 新訳華厳経音義私記のこの記事は『ねこ』の最古の用例としても知られていますが、「下多々既(たたけ)」と書かれている「狸」の字の説明で、「貍が狸である」との説明の次に「また野貍のこととも言う」と注釈がされています。
 『野貍』とわざわざ『野』を付けているのは、この『貍』という動物が通常は家の中や周囲にいるような動物である事を示しています。となるとこの『貍=狸=たたけ』はタヌキやムジナとは考えにくく、猫を指していると考えるべきでしょう。
 さらにまた方言を調べてみると、猫を表す方言には
  たた(岩手県沼宮内
  ちゃぺ(青森県上北郡他)
  ちゃっペ(津軽・秋田)
  ちゃんペ(千葉県山武郡
のように『たたけ』との関連を思わせる例があるのに対し、タヌキを表す方言にはそうした例がありません。
 こうした点から考えて、『たたけ』がかつて猫なかんづく野猫を指す言葉として使われた事があったのは確実でしょう。
 ただ一方で天平宝字2年(758年)の正倉院文書に「筑紫多々毛筆二管」とある『多々毛』は、猫の毛を筆に使う事が考えられない以上タヌキを指していると思われますし、『たたけ』が古くからタヌキの意味でも使われて来たのも事実です。
 中国での『狸』の字がジャコウネコ類を中心にタヌキ・ムジナ・山猫・猫など中型肉食獣の総称として使われた事と対応するように日本でも『たたけ』がタヌキ・ムジナ・野猫・猫を包括して指す言葉として使われたのかも知れません。
 しかしまた、『たたけ』が非常に古い言葉で、8世紀頃には既に『たたけ』が何を指す言葉なのか良く判らなくなっていて、タヌキの意味で使われたり、野猫の意味で使われたりしたのだと考えることもできます。
 そこで『たたけ』の語源を考えてみました。類聚名義抄の声点でみて『たたけ』の『たた』と同じアクセントなのは次の語彙です。
  タゝカフ(闘・戦)
  タゝサマ(縦)
 ✱タゝズム(彷徨)

✱『たたずむ』は現代では「一つ所にじっと立っている」という意味ですが、この時代は「あちこちさまよい歩く」という意味でした。

  タゝフ(瀁)
  タゝラ(鑪)
 ✱タゝリ(絡■〈土偏に朶〉)

✱この『たたり』とは時代別国語辞典上代編によれば「方形の台に柱を立て、紡いだ糸を纒きつけるようにしたもの。糸巻き。繰り台」です。

  タゝル(爛)
 このうち『タゝル』には『爛』という字が当てられていますが、『爛』は「ただれる」という意味です。ところが声点からみてここは濁音ではなく清音ですから、これは『タダル(爛る)』とは取れません。
 となると、この『タゝル』は『爛』に意味が近く、清音の『タタル(祟る)』であろうと思われます。
 一方、『たたけ』の『け』と同じアクセントなのは次の語彙です。
  ケ(毛)
  ケ(笥)
  ケス(消・滅)
 ✱ケダ物(禽)

✱『けだもの』の『け』と『け(毛)』のアクセントは同じですが、『けもの』の『け』はアクセントが違います。漢字でも獣と禽で書き分けられたりしているので、『けだもの』と『けもの』は元は語源・意味が違っていたのかも知れません。

  ケヅル(徹・蔑・刮・断)
  ケブリ(煙)

 これらから判断して、『たた』は『たたかふ』の『たた』、もしくは『たたる』の『たた』と考えられますし、『け』は『けだもの』の略の『け』と思われます。
 従って『たたけ』とは「闘う獣」もしくは「祟りをなす獣」という意味になります。
 「闘う獣」なら、非常に闘争的な獰猛な動物が想像できますし、「祟りをなす獣」でも恐怖の対象となるような獣ということですから、それはタヌキや野猫とは印象が違います。
 そこで思い出されるのは、かつて日本にもオオヤマネコが居たという事実です。紀元前1000年頃までの日本列島にはオオヤマネコが居たということが、✱貝塚からオオヤマネコの骨が出土する事で明らかになっています。
 
✱貝塚から出土するオオヤマネコの骨は加工されていて、まじない等に使用された形跡があるとのことです。古事記に登場するオホタタネコが祈祷師であることも考え併せ、私は『たた』は「祟る」の『たた』ではないかと思います。

 『たたけ』とは本来はオオヤマネコの呼び名だったのが、オオヤマネコ滅亡後、次第に意味が解らなくなって行って、やがてタヌキ、あるいは野猫、猫などを指す言葉として転用されて行ったというのが私の推理です。
 それでは紀元前1000年頃に滅亡した動物の呼び名が千数百年も語彙として生き残っていたりするものなのでしょうか。
 参考になりそうなのが『きさ』の場合です。『きさ』について和名抄は次のように記しています。

  象 岐佐、獣名、似水牛、大耳、長鼻、眼細、牙長者也

 あきらかにこれは「象」を指しています。平安貴族だった源順が象を見ることなど生涯無かったでしょうが、象について驚くほど正確な知識を持っていたことが判ります。
 ✱象が日本に居ないのに、象を意味する『きさ』という言葉があったのは何故でしょうか。考えられるのは象の棲む地域の人たちが日本に渡って来て、彼らによって『きさ』という言葉も日本語の中にもたらされたのではないかという事です。

✱日本にも旧石器時代後期まではナウマン象という象が棲息していた事が化石の研究から判っています。
けれども旧石器時代の日本列島の住民と縄文時代人が連続しているかどうかは明らかではありません。
語形の酷似からみても『きさ』はクメール語由来の語彙であり、ナウマン象とは無関係だろうと思います。

 そこで注目されるのはクメール語で象を意味する✱ku-
chingという言葉です。安本美典氏の「日本語の成立」(1978年、講談社新書)によれば、クメール語と上古日本語との間で偶然以上の一致のみられる語彙の数は基礎百語で29、基礎ニ百語で57で、いずれも琉球語を除けば、世界の言語の中で最も高い数値を示しています。

✱出典→国語語源辞典。
日本語のサ行子音は平安時代頃にはshであったことが知られていますが、更に古くはchもしくはtsであったと言われています。(長田夏樹「邪馬台国の言語」参照)
従って『きさ』は古くはkichaと発音されていたかも知れず、その場合クメール語のku-chingとは第一・第二子音が全く同じですから、語源が同じである蓋然性は高いと思います。
なお、マレー・インドネシア語では猫のことをkuchingと言いますが、これもクメール語で象を意味するku-chingから来ているのでしょうが、何故象が猫になってしまったのかは不明です。

 安本氏は今から6000年前頃にクメール系の人たちが日本列島に渡来し、日本語に影響を与えたとしています。
 この時にクメール系の人たちが象を意味するku-chingという言葉を日本語の中に持ち込み、やがて『きさ』という語形になって行ったのだとすれば、『きさ』は数千年に渡って象を見ることの無い人々の間で生き続けた言葉だということになります。
 『きさ』が、それだけの歳月を生き延びたならば、今から3000年前に滅亡したオオヤマネコの呼び名であった『たたけ』が、それから千数百年後の8世紀まで言葉として残っていても、何ら不思議ではないと私は思います。

『ねこ』の語源を考える⑬

『おて』の語源

 全国方言辞典と同じ著者による「分類方言辞典」(1954年、東京堂出版)には、『ねこ』の方言もいろいろ掲載されていますが、意外性で際立っているのが『おて』(滋賀県蒲生郡八幡)という方言でしょう。
 東條操氏はこの項目に「→えて」と書き込んでいて、『おて』は猿の別称『えて』から音と意味が転じたものと考えていたようです。果してそうでしょうか。
 猿と猫を間違えるなどということは、ほとんどあり得ない事ですし、『さる』が「去る」に通じるという発想から生まれた忌み言葉『えて』は今も広く使われている言葉ですから、『えて』から音が転じて『おて』になり、さらに意味も転じて猫を意味するようになったとは、とても考えられません。
 先にも触れた室町時代の辞書「挨嚢鈔」にはこんな記述があります。

 猫ヲ✱乙(ヲト)ト云ハ何ノ故ゾ
 虎ヲ。於菟(ヲト)ト云也。然ニ猫ノ姿。并ニ毛ノ色虎ニ似レル故ニ。世俗猫ヲ呼ビテ於菟(ヲト)ト云ヘバ。猫則喜ト云リ。(下略)

✱『乙』『於菟』にヲトと仮名が振ってありますが、これは定家仮名遣いによるもので、歴史的仮名遣いではオト。

 「(質問者)世間で猫を『おと』と言ったりするのはどうしてですか?(回答者)虎のことを別名『おと』と言います。猫の姿や毛色が虎に似ているので、猫のことを『おと』と呼べば猫は喜ぶと言います」
 猫の毛色と虎の毛色が似ているかどうかは疑問ですが、この辞書は加藤清正の虎退治の150年も前に書かれたものなのですから、この時代の日本人にとって虎はほとんど空想の世界の動物であるわけで、このような誤りは仕方ない事でしょう。
 そして、方言の『おて』は、この猫の別称の『おと』が訛った形というのが私の考えです。猫を意味する『おと』については、広辞苑にも言海にも載ってますから、何故東條操博士が気づかなかったか不思議ですが…。

『ねこ』の語源を考える⑫

『かな』の語源

 江戸時代の方言辞書「物類称呼」(越谷吾山著、1775年)にはこんな記述があります。

 「かなといふ事はむかしむさしの国金沢の文庫に 唐より書籍(しょじゃく)をとりよせて納めしに 船中の鼠ふせぎにねこを乗(のせ)て来る 其猫を金沢の唐ねこと称す 金沢を略して かな とぞ云ならはしける(中略)今も藤沢の駅わたりにて猫児(ねこのこ)を■〈口偏に羅〉(もら)ふに 其人何所(どこ)猫にてござると問へば 猫のぬし是は金沢猫なり と答るを常語とす」

 江戸時代の東国(関東地方)での猫の方言『かな』の語源は金沢文庫の『かな』なのだと書かれている訳ですが、この語源説には疑問があります。

金沢文庫の創始者は金沢実時ですが、金沢氏の姓は『かねざわ』であって、金沢文庫も鎌倉時代には『かねざわ文庫』と呼ばれていました。
金沢文庫が創設され、盛んに利用された鎌倉時代、中国は元の時代で日本とは国交が無かった訳ですから、この時代に中国から書物を輸入したとは考えられません。
③「全国方言辞典」(東條操編、1951年、東京堂出版)によれば、猫を『かな』と呼ぶのは東国だけでなく、対馬でも『かな』と言う。

と言う訳で、『かな』の語源が金沢文庫の『かな』であるとは納得できませんので、『かな』の本当の語源は何なのかを考えてみようと思います。
 そこで、まず③の、関東と対馬という分布のしかたに注目しました。
 民俗学者柳田國男(1875〜1962)は論文「✱蝸牛考」において、カタツムリの方言の分布調査から、「京都を中心にデデムシ・デンデンムシ系の語彙が広がり、その外側にマイマイ系の方言があり、さらにその外側にカタツムリ系の方言地域がある」という結果を得る一方で、「倭名類聚鈔」には『加太豆不利(かたつぶり)』という表記があり、カタツムリが平安時代には都の言葉であったと考えられるところから、「かつて都の言葉であったカタツムリが、後から生まれた言葉マイマイによって都から駆逐されて方言になり、そのマイマイもさらに後から生まれた言葉デンデンムシによって都から追われて方言になった」と考え、このように都で生まれた新しい言葉が古い言葉を滅ぼしながら地方に広がってゆくという事が何度も繰り返されることによって都から遠く離れた西と東に同じ言葉が方言として残っているという現象が生じると説きました。

✱「蝸牛考」は1927年、「人類学雑誌」に初稿発表。1930年に改訂稿が、1943年に三訂稿が発表されています。現在、改訂稿が岩波文庫に、三訂稿がちくま文庫の「柳田國男全集19」に収められています。

 これは「方言周圏論」と呼ばれ、方言研究に初めて科学的実証的方法論を持ち込んだ論文として今日でも高く評価されています。
 京都を間に、遠く離れた関東と対馬で使われるという『かな』の分布は、まさに方言周圏論の典型のような分布です。このことから『かな』がもともとは都で生まれた言葉であり、非常に古い時代に都では使われなくなった言葉であろうと推定できます。
 先の全国方言辞典で『かな』の項を引くと、『かな』と呼ばれるのが猫だけではなく、いろいろな動物が『かな』と呼ばれているのが判ります。
  Ⓐかな=魚の雄(栃木県河内郡
  Ⓑかな=鮭の雄(新潟県阿賀野川筋)
  Ⓒかな=蛇(福島県
  Ⓓかな=蚊(山梨県
  Ⓔかないむん=家畜(南島喜界島)
  Ⓕかなお=鮭の雄(北海道)
  Ⓖかながめ=やどかり(八丈島)
  Ⓗかなぎ=めだか(秋田県仙北郡)
  Ⓘかなぎっちょ=かなへび(宮城県山形県米沢・新潟県・長野県北安曇郡
  Ⓙかなくび=とかげ(栃木県河内郡群馬県勢多郡
  Ⓚかなこ=とうせみ蜻蛉(津軽
  Ⓛかなごろ=鰻の子(三重県志摩郡)
  Ⓜかなすずめ=鶺鴒(秋田県鹿角郡
  Ⓝかなちっち=鶺鴒(岩手県九戸郡
  Ⓞかなちょろ=とかげ(東国・佐渡
  Ⓟかなめ=めだか(長野県東筑摩郡
  Ⓠかなやま=しいら(佐賀県唐津
  Ⓡかなよ=蜉蝣(千葉県山武郡
  Ⓢかなんぼー=鹿(山梨県
  Ⓣかんなっちょ=こおろぎ(静岡県志太郡
  Ⓤかんなつぼ=鳰(愛知県碧海郡)
  Ⓥかんなめ=鰻の子(愛知県知多郡
  Ⓦかんなめ=どじょうの子(愛知県東春日井郡)
  Ⓧかんなん=大きい螢(福井県坂井郡
 このうちⒹとⓈは本体は『か』で、『な』は『ねこま』の章で述べた接尾辞の『な』であろうと思われます。Ⓔの『か』は家のこと、『な』は「~の」の意味の連体助詞だと思います。
 ⒶⒷⒻⓁⓆⓋⓌはいずれも魚ですが、一見『さかな』から語頭の『さ』が脱落した形のように見えますし、Ⓠの場合はそれに当てはまるかも知れませんが、ⒶⒷⒻがいずれも雄を指している事からみて、『な』が魚を意味し、『か』は男性を意味する『こ』の母音交替形であろうと思います。ⓁⓋⓌの場合は子供を意味する『こ』の母音交替形でしょう。
 またⒸⒽⒾⒿⓄⓅはいずれも身体が細長いという共通点があり、蛇を意味する『かな』、そしてそこから転じた糸を意味する『かな』に由来すると思われます。
 Ⓖの『かな』は『あな(穴)』の意味でしょうが、『かな』の方が『あな』よりも古い言葉なのかも知れません。
 ⓀⓇⓉⓍはいずれも昆虫なので、昆虫を意味する『かな』という言葉がかつてあったのかも知れません。
 こうして残ったのが、猫を意味する『かな』とⓂⓃⓊです。鶺鴒は古くは『にはくなぶり』と呼ばれていましたし、鳰はカイツブリの事で、古くは『にほどり』と呼ばれていました。この『には』『にほ』は『にへ(贄)』の被覆形で、『にへ』はもともとは「神に捧げる食物」の意味ですが、そこから転じて、『には』『にほ』は「神聖な」「めでたい」の意味で使われます。つまり鶺鴒もカイツブリも古来日本人に愛されてきた鳥なのです。
 『愛し』と書いて『かなし』と読むことがありますが、上代の『かなし』には「いとしい」「可愛い」という意味もありました。今日でも全国方言辞典によれば北海道松前地方・青森県・南島宮古島にはこの意味の『かなしい』という言葉が残っています。奄美を舞台にした流行歌「島育ち」の歌詞にある「かなも年ごろ」の『かな』が恋人を意味するのも、かつて奄美でも『かなしい』が「いとしい」「可愛い」の意味で使われていたからです。
 この「いとしい」「可愛い」の意味の『かなし』の語幹『かな』が、猫や鶺鴒やカイツブリを意味する『かな』の語源であろうと私は思います。
 

『ねこ』の語源を考える⑪

けれどもⒶの説に対しては批判もありますから、批判について検証してみたいと思います。

縄文時代の遺跡から出て来る骨はツシマヤマネコのような山猫の骨ではないのか?
記紀万葉といった古い文献に猫に関する記述が無いのは、その時代に日本に猫がいなかったからではないのか?
❸猫が中国に入ったのは6世紀。紀元前500年頃の日本に猫が渡来する筈がない。

批判❶に対して
 小型猫の骨が遺跡から出て来るのは縄文晩期になってからだという点に注意したいと思います。
 日本列島が大陸と地続きだったのは無土器文化の時代、今から1万4000年以上も前のことで、縄文晩期には日本列島は周囲を海に囲まれています。
 泳ぎが得意でない山猫が海を泳いで渡ってきたとは考えられません。人が猫を連れてきたと考えるのが自然です。
 また、小型猫の骨が出土するのが山野ではなく貝塚であるという点にも注意が必要です。日本には猫や山猫の肉を食用とする文化はありませんから、貝塚の骨は、家族の一員として埋葬されたものと考えるべきで、やはり山猫ではなく家猫の骨でしょう。

批判❷に対して
 「魏志倭人伝」にはこんな記述があります。「其地無牛馬虎豹羊鵲」。つまり倭人の地には牛も馬も虎も豹も羊もカササギも居ないと書かれているのです。けれども日本には縄文時代から牛がいたことは、牛の骨が出土することから明らかです。このように文献の記述が事実を伝えていない場合もある訳ですから、文献に記述がないから居なかったとは言いきれないでしょう。
 また「古事記崇神天皇の段には、オホタタネコという祈祷師が登場しますが、この名前がネコに由来している蓋然性もあると思います。

批判❸に対して
 多分これが一番大きな問題なのでしょうが、大きな問題だけに後で詳しく述べたいと思いますから、ここでは説明を省略して、ただ紀元前500年の中国にも猫がいた蓋然性はあることだけ記しておきます。

 縄文晩期の紀元前500年前後と言えば中国では「臥薪嘗胆」「会稽の恥」「呉越同舟」といったことわざで知られる呉越抗争の時代です。大胆に推理するなら、呉越の抗争で難民化した呉越の住民が海に逃れて海流に乗り、日本に水田稲作を伝えた。そしてその時航海の守り神として猫を乗せて、日本に猫をもたらしたと私は考えます。
 そこで猫が4〜5世紀以前に既に日本に渡来していたとして『ねこ』の語源を考える事にしましょう。
 先に述べた通り、この時代の日本語にはeという母音がありませんから、nekoとかneという語形はあり得なかった訳です。✱eはiaという連母音の合成でできた母音ですから、neは古くはniaと発音されていたと考えられます。

✱『ねこ』の最古の用例がある8世紀頃の文献ではe(エ甲類)と ë (エ乙類)の二種類の『え』が区別されていたのですが、子音との組み合わせによっては区別のない音もあります。
これは8世紀頃には乙類→甲類という収斂が進行中で、既に収斂を終えて乙類が消滅した音と、まだ甲類・乙類の区別が残っていた音とがあった為と考えられます。
『ね』は既に区別が無くなっていた音ですから、8世紀の『ね』には元からneであった音と元はnëであった音とがあるわけです。nëの場合は、古い形はnaiになります。ただ『にゃんこ』の『にゃん』との対応からみてnaiではなくniaが『ね』の古形であろうと私は思います。

 これは猫を意味する幼児語『にゃんこ』から接尾辞『こ』を除いた『にゃん nyan 』に語形がそっくりです。当然niaとnyanは同源の言葉と考えて良いでしょう。nyanはnianのiが拗音化した語形であると考えるなら、niaとnianの違いは語尾のnが付くか付かないかだけです。
 それではniaとnianのどちらが古い語形なのでしょうか。つまりniaがnianからnが脱落した形なのか、nianがniaにnが付加された形なのかですが、撥音のnが後から付加されるのは『みんな(皆)』『たんび(度)』のように語中に限られ、語尾に付加されることはありませんから、nianの方が古く、niaはnianからnが脱落した形と考えられます。
 一方、「国語語源辞典」(山中襄太著、1976年、校倉書房)には、中国福建省厦門(あもい)では俗語で猫のことをniaunと言うとあります。福建省春秋戦国時代には越国があった所です。
 nianとniaunの酷似は偶然ではないでしょう。おそらく越語(閩南語)のniaunを日本人はnianという形で受け入れたのでしょう。このnianが日本語から連母音が消えた4〜5世紀頃に、母音の合成によってnenとなったりiの拗音化によってnyanとなったりしたのだと私は思います。
 ここで源氏物語に出てくる『ねうねう』は実際にはnen-nenと発音されていたのではないかと私が述べたのを思い出してください。
 nen-nenのnenは、かつては猫の呼び名でもあったのです。
 
 以上を図示すると次のようになります。

niaun(越語)→nian→nen+ko→nenko→neko

niaun(越語)→nian→nyan+ko→nyanko

『ねこ』の語源を考える⑩

『ねこ』の語源━━私の仮説

 『ねこ』の語源を考える時、私には気になることがあります。nekoという言葉にeという母音が含まれていることです。
 日本語の歴史を遡ってみると、「古事記」「日本書紀」「風土記」などが書かれた8世紀には a・i・Ï
・u・e・ë・o・ö の8種類の母音が使われていたと考えられています。このうち ï・e・ë の3種類の母音は✱日本語から連母音が消えた時に、連母音の合成によってできた母音で、それ以前の日本語は a・i・u・o・ö の5母音でした。

✱日本語は元来連母音を持たない言語であったとの説もありますが、私は日本語は元々は連母音を許容する言語であったのが、おそらく4〜5世紀頃に外来の言語の影響の下に一時的に連母音が消えたのだろうと思います。

 5母音が8母音になった時期が何時なのかを特定するのは難しいのですが、卑弥呼が生きた3世紀当時はまだ5母音であったことが、✱「魏志倭人伝」に表れる日本語語彙の分析から判りますから、おそらく4〜5世紀頃であろうと思われます。

✱「邪馬台国の言語」(長田夏樹著、1979年、學生社)参照。

 『ねこ』という言葉のうち、『こ』=愛称の接尾辞という見方は「岩波古語辞典」はじめ多くの人によってなされていますし、私もこの点に関して異議はありません。
 問題は『ね』なのですが、もし『ねこ』もしくは接尾辞の『こ』が付く前の『ね』の成立が4〜5世紀以前ならば、日本語にeという母音が無かった時代ですから、もっと古い語形を復元して考えなければなりません。そこで猫が日本に入ってきたのがどの時代だったかを考えてみました。
 猫が日本に入って来た時期については、次のような説があるようです。

縄文時代
家猫に近い小型の猫科動物の骨も貝塚からよく出てきており(中略)その時期は(中略)水田稲作文化が渡来した縄文晩期、前1000年〜前500年あたりに上限のめどを置いてよかろう。(✱大木卓「猫が歩いてきた道」)

✱「猫 バラエティムック」(1988年、朝日新聞社)所収。

Ⓑ仏経伝来の時
大船には鼠多くあるものなり。往古仏経の舶来せし時船中の鼠を防がん為に猫を乗せ来ることあり。(✱田宮仲宣「愚雑俎」)

✱田宮仲宣は江戸中期の戯作者。1753?〜1815年。随筆「愚雑俎」は本人死後の1833年刊。この件は後述する「物類称呼」の応用か。

Ⓒ6〜7世紀
中国に家ネコが入ったのが一応6世紀としても、大陸人の日本への移住は、その後100年ないし200年のあいだにひんぱんになされたに違いない。同時に、多少のネコもまた上陸したと考えるべきだろう。(中村禎里「日本動物民俗誌」)

 このうちⒷの説が一般に広く信じられているようで、「ねこ/その歴史・習性・人間との関係」の木村喜久弥氏、「猫まるごと雑学事典」の北嶋廣敏氏もこの説を支持していますが、仏経伝来の時よりもはるか後世の江戸時代に書かれたものであり、何の根拠も示していない訳ですから、何故このような説が広く受け入れられているのか不思議です。
 Ⓒの説も基本的には推測の域を出ないもので、これに対して唯一科学的根拠を示しているのがⒶの説ですから、猫の日本渡来の時期としてはⒶの縄文時代とするのが妥当だと私は思います。

『ねこ』の語源を考える⑨

それでは『ねこま』の語源は何なのでしょうか?『ねこ』の部分については後ほど詳しく述べる事として、『ねこま』の『ま』にについて考えてみます。
『岩波古語辞典』の『ま』の項目を引くと次のような『ま』が載っています。
①目②馬③間・際④魔
またmaと子音が入れ替りやすいbaとna、母音が入れ替りやすいmoについても調べてみました。
  ば①場
  な①己②汝③肴④菜⑤魚⑥名⑦字⑧儺⑨《接尾辞》
  も①妹②面・方③喪④裳⑤藻
 これらの中で『ねこま』の『ま』の語源として考えられそうなのはⒶ目Ⓑ《接尾辞》の『な』の二つでしょう。それぞれについて考えてみます。
Ⓐ目
 『ま(目)』は『まぶた』『まつげ』の『ま』で、『め(目)』の被覆形です。光の量に応じて虹彩の形が大きく変わったり、夜間緑色に光ったりする猫の目の強い印象から、猫の目を『ねこま』と呼び、やがて『ねこま』が『ねこ』そのものの意味でも使われるようになったと考えることは可能です。
 その動物の印象的な特性を指す言葉がやがてその動物自体を指す言葉としても使われるようになった例として、次の例を挙げることができますから。
  ◆ゐ(猪)→ゐのしし(猪の肉)→ゐのしし(猪)
  ◆うま(馬)→こうま(子馬)→こま(駒)
 問題点としては、『ま』が被覆形として使われる場合、これまで知られている例では全て語頭に表れていて、語尾に表れる例が無いということでしょう。
Ⓑ《接尾辞》の『な』
 実は岩波古語辞典で接尾辞の『な』として挙げられているのは『せな』『てこな』等の『な』で、これらは東国で限定的に使われた言葉なので、『ねこま』の語源として考えるのは不適当でしょう。ただ動物名の中に『むじな』『くひな』など接尾辞と思われる『な』が出て来ます。類聚名義抄で見る限り、『むじな』『くひな』の『な』と『ねこま』の『ま』はアクセントも同じです。
 次に子音の問題ですが、nとmの交替の例としてよく挙げられる『みら→にら(韮)』『みな→にな(蜷)』がいずれもm→nの交替であり、接尾辞の『な』が『ねこま』の『ま』になったと考えた場合のn→mという子音交替とは逆方向だという点が問題かも知れません。
 とは言え一例だけですが、『ぬばたま→むばたま』というn→mの子音交替の例がありますから、子音交替の方向に関しても決定的な障害は無いと言っていいでしょう。
 そんな訳で、私はこの接尾辞の『な』が『ねこま』の『ま』の語源であった確率が高いと思います。
 何故『ねこな』が『ねこま』に変化したのかですが、先に『めうこ』説に対する批判の所で、類聚名義抄に『めこま』という語形が出てくること、そして『めこま』は『ねこま』より古い言葉であるかも知れないことを述べました。
 おそらく『めこな』という語形が先に生まれて、語尾の『な』のn音が語頭の『め』のm音に同化されて『めこま』となって、その後に『めこま』に対応する形で『ねこま』という語形が生まれたのではないかと私は考えています。
 既に『ねこ』という言葉があったのに、それと並行して『ねこま』という言葉が使われるようになったのは、二音節語を三音節語にすることで語調を整えるという意味合いがあったのではないでしょうか。
 従って『ねこま』という言葉は当初から雅語であり、日常生活の中で使われる言葉では無かったろうと思います。『ねこ』が現代でも使われている言葉なのに、『ねこま』の方は早くに死語になってしまったのは、その辺に理由があるのでしょう。