『ねこ』の語源を考える⑭

『たたけ』について

 「大辞林」(三省堂)には『たたけ』についてこう書かれています。

たたけ【狸】〔「たたげ」とも〕
 (1)タヌキの異名。〔名義抄〕
 (2)タヌキの毛。筆の穂に用いる。〔日葡〕

 (2)の記事があるのは大辞林だけですが、(1)については、広辞苑・岩波古語辞典・旺文社古語辞典・✱時代別国語大辞典上代編の記述もほぼ同様です。

✱時代別国語大辞典上代編は「たたけ【狸】(名)たぬき。食肉目いぬ科。東アジア特産。山地・草原に穴居する。その毛は、兎や鹿の毛とともに、毛筆の材料にした」とやや詳しく記述しています。これは上代の文献には『たぬき』の用例が無いためと思われます。

 (2)の語義は室町時代頃になって『たたけ』が『たたげ』と発音されるようになってから、『げ』の音から『毛』を連想してこのような意味が派生したものですが、(1)の「タヌキの異名」という説明には私は疑問があります。
 何度も引用してきた室町時代の辞書・挨嚢鈔にはこんな記述があるからです。

タゝゲノ筆ナンド云。タゝ毛トハ。タヌキノ毛歟。
狸ノ字ヲ。タゝゲトヨム。又子コマ共ヨム。只子コト同事也。狸(タゝゲ)ヲ猯(タヌキ)二用ハ僻事也。(中略)狸(タゝゲ)猯キハ各別也。狸ハ。猫ナルベシ。(下略)

 「(質問者)世間では『たたげの筆』などと言っていますが、『たたげ』とはタヌキの毛のことですか?(回答者)狸の字を『たたげ』と読みます。また『ねこま』とも読みます。ただ『ねこま』というのは『ねこ』と同じことです。『たたげ』を『たぬき』の意味に使うのは間違いです。(中略)『たたげ』と『たぬき』はそれぞれ別の動物です。『たたげ』とは『ねこ』のことです」
 実に明確に『たたけ(たたげ)』は猫であると言い切っています。
 またこんな記事もあります。

猫狸 猫捕鼠也、貍狸也、又云野貍、倭言上尼古、下多々既(新訳華厳経音義私記)

 新訳華厳経音義私記のこの記事は『ねこ』の最古の用例としても知られていますが、「下多々既(たたけ)」と書かれている「狸」の字の説明で、「貍が狸である」との説明の次に「また野貍のこととも言う」と注釈がされています。
 『野貍』とわざわざ『野』を付けているのは、この『貍』という動物が通常は家の中や周囲にいるような動物である事を示しています。となるとこの『貍=狸=たたけ』はタヌキやムジナとは考えにくく、猫を指していると考えるべきでしょう。
 さらにまた方言を調べてみると、猫を表す方言には
  たた(岩手県沼宮内
  ちゃぺ(青森県上北郡他)
  ちゃっペ(津軽・秋田)
  ちゃんペ(千葉県山武郡
のように『たたけ』との関連を思わせる例があるのに対し、タヌキを表す方言にはそうした例がありません。
 こうした点から考えて、『たたけ』がかつて猫なかんづく野猫を指す言葉として使われた事があったのは確実でしょう。
 ただ一方で天平宝字2年(758年)の正倉院文書に「筑紫多々毛筆二管」とある『多々毛』は、猫の毛を筆に使う事が考えられない以上タヌキを指していると思われますし、『たたけ』が古くからタヌキの意味でも使われて来たのも事実です。
 中国での『狸』の字がジャコウネコ類を中心にタヌキ・ムジナ・山猫・猫など中型肉食獣の総称として使われた事と対応するように日本でも『たたけ』がタヌキ・ムジナ・野猫・猫を包括して指す言葉として使われたのかも知れません。
 しかしまた、『たたけ』が非常に古い言葉で、8世紀頃には既に『たたけ』が何を指す言葉なのか良く判らなくなっていて、タヌキの意味で使われたり、野猫の意味で使われたりしたのだと考えることもできます。
 そこで『たたけ』の語源を考えてみました。類聚名義抄の声点でみて『たたけ』の『たた』と同じアクセントなのは次の語彙です。
  タゝカフ(闘・戦)
  タゝサマ(縦)
 ✱タゝズム(彷徨)

✱『たたずむ』は現代では「一つ所にじっと立っている」という意味ですが、この時代は「あちこちさまよい歩く」という意味でした。

  タゝフ(瀁)
  タゝラ(鑪)
 ✱タゝリ(絡■〈土偏に朶〉)

✱この『たたり』とは時代別国語辞典上代編によれば「方形の台に柱を立て、紡いだ糸を纒きつけるようにしたもの。糸巻き。繰り台」です。

  タゝル(爛)
 このうち『タゝル』には『爛』という字が当てられていますが、『爛』は「ただれる」という意味です。ところが声点からみてここは濁音ではなく清音ですから、これは『タダル(爛る)』とは取れません。
 となると、この『タゝル』は『爛』に意味が近く、清音の『タタル(祟る)』であろうと思われます。
 一方、『たたけ』の『け』と同じアクセントなのは次の語彙です。
  ケ(毛)
  ケ(笥)
  ケス(消・滅)
 ✱ケダ物(禽)

✱『けだもの』の『け』と『け(毛)』のアクセントは同じですが、『けもの』の『け』はアクセントが違います。漢字でも獣と禽で書き分けられたりしているので、『けだもの』と『けもの』は元は語源・意味が違っていたのかも知れません。

  ケヅル(徹・蔑・刮・断)
  ケブリ(煙)

 これらから判断して、『たた』は『たたかふ』の『たた』、もしくは『たたる』の『たた』と考えられますし、『け』は『けだもの』の略の『け』と思われます。
 従って『たたけ』とは「闘う獣」もしくは「祟りをなす獣」という意味になります。
 「闘う獣」なら、非常に闘争的な獰猛な動物が想像できますし、「祟りをなす獣」でも恐怖の対象となるような獣ということですから、それはタヌキや野猫とは印象が違います。
 そこで思い出されるのは、かつて日本にもオオヤマネコが居たという事実です。紀元前1000年頃までの日本列島にはオオヤマネコが居たということが、✱貝塚からオオヤマネコの骨が出土する事で明らかになっています。
 
✱貝塚から出土するオオヤマネコの骨は加工されていて、まじない等に使用された形跡があるとのことです。古事記に登場するオホタタネコが祈祷師であることも考え併せ、私は『たた』は「祟る」の『たた』ではないかと思います。

 『たたけ』とは本来はオオヤマネコの呼び名だったのが、オオヤマネコ滅亡後、次第に意味が解らなくなって行って、やがてタヌキ、あるいは野猫、猫などを指す言葉として転用されて行ったというのが私の推理です。
 それでは紀元前1000年頃に滅亡した動物の呼び名が千数百年も語彙として生き残っていたりするものなのでしょうか。
 参考になりそうなのが『きさ』の場合です。『きさ』について和名抄は次のように記しています。

  象 岐佐、獣名、似水牛、大耳、長鼻、眼細、牙長者也

 あきらかにこれは「象」を指しています。平安貴族だった源順が象を見ることなど生涯無かったでしょうが、象について驚くほど正確な知識を持っていたことが判ります。
 ✱象が日本に居ないのに、象を意味する『きさ』という言葉があったのは何故でしょうか。考えられるのは象の棲む地域の人たちが日本に渡って来て、彼らによって『きさ』という言葉も日本語の中にもたらされたのではないかという事です。

✱日本にも旧石器時代後期まではナウマン象という象が棲息していた事が化石の研究から判っています。
けれども旧石器時代の日本列島の住民と縄文時代人が連続しているかどうかは明らかではありません。
語形の酷似からみても『きさ』はクメール語由来の語彙であり、ナウマン象とは無関係だろうと思います。

 そこで注目されるのはクメール語で象を意味する✱ku-
chingという言葉です。安本美典氏の「日本語の成立」(1978年、講談社新書)によれば、クメール語と上古日本語との間で偶然以上の一致のみられる語彙の数は基礎百語で29、基礎ニ百語で57で、いずれも琉球語を除けば、世界の言語の中で最も高い数値を示しています。

✱出典→国語語源辞典。
日本語のサ行子音は平安時代頃にはshであったことが知られていますが、更に古くはchもしくはtsであったと言われています。(長田夏樹「邪馬台国の言語」参照)
従って『きさ』は古くはkichaと発音されていたかも知れず、その場合クメール語のku-chingとは第一・第二子音が全く同じですから、語源が同じである蓋然性は高いと思います。
なお、マレー・インドネシア語では猫のことをkuchingと言いますが、これもクメール語で象を意味するku-chingから来ているのでしょうが、何故象が猫になってしまったのかは不明です。

 安本氏は今から6000年前頃にクメール系の人たちが日本列島に渡来し、日本語に影響を与えたとしています。
 この時にクメール系の人たちが象を意味するku-chingという言葉を日本語の中に持ち込み、やがて『きさ』という語形になって行ったのだとすれば、『きさ』は数千年に渡って象を見ることの無い人々の間で生き続けた言葉だということになります。
 『きさ』が、それだけの歳月を生き延びたならば、今から3000年前に滅亡したオオヤマネコの呼び名であった『たたけ』が、それから千数百年後の8世紀まで言葉として残っていても、何ら不思議ではないと私は思います。