『ねこ』の語源を考える⑮

唐猫は舶来の猫か?

 『からねこ』について、辞書にはこう書かれています。

①からねこ【唐猫】舶来のネコ。上流社会で珍重愛翫された。のちには一般のネコにもいう。(岩波古語辞典)
②からねこ【唐猫】(中国から渡来したことから)舶来の猫。(大辞林
③からねこ【唐猫】(中国から伝わったからいう)猫に同じ。(広辞苑

 この三種の辞書の説明は微妙に違っていて、②③が中国から渡来したとしているのに対し、①は中国とは書いていません。中国以外の地域である蓋然性にも含みを持たせた書き方です。
 また①②が猫のうちの舶来のを特に『からねこ』と呼んだとしているのに対して、③は唐猫=猫としているという違いもあります。
 広辞苑が唐猫=猫としているのは、広辞苑が基本的に現代語の辞書であって、現代語における『からねこ』の意味を記述すれば良しとしているからなのかも知れません。
 源氏物語の「からねこの、こゝにたがへるさましてなむ侍りし」(若菜下)という記述からみて、紫式部が『からねこ』を和猫とは違うものと意識していたことは確かで、広辞苑の説明は古典には当てはまりませんから。
 それでは『からねこ』は本当に中国から渡来した猫なのでしょうか。
 まずは『からねこ』の最古の用例に当ってみましょう。『からねこ』の最古の用例は✱花山院の次の歌のようです。
  敷島の大和にはあらぬからねこを
  君がためにぞ求め出でたる(✱✱夫木集)

✱(968〜1008)第65代天皇。在位984〜986。冷泉天皇の第一皇子。
✱✱夫木和歌集は鎌倉時代末期1309年頃の成立。藤原長清編。花山院の時代より200年以上も後の成立ですが、この花山院の歌は古い資料に拠っているものと考えられます。

 この歌は花山院が、時の✱太皇太后であった✱✱昌子(しょうし)に贈った歌ですが、昌子太皇太后の没年は999年ですから、この歌が詠まれた下限は999年、そして上限は花山天皇が退位して花山院となった986年で、986〜999年の間にこの歌が詠まれたという事になりますが、おそらく下限に近い方でしょう。

太皇太后は通常は先々代の天皇の皇后。この時の天皇一条天皇ですから、本来ならば円融天皇の皇后詮子である筈ですが、詮子は皇太后として扱われていて、ここで太皇太后とされているのは三代前の冷泉天皇の皇后昌子です。これは先代天皇である花山院の在位中に皇后の冊立が無かったためのようです。なお、花山院は冷泉天皇の皇子ですが、母親は贈皇后宮藤原懐子で昌子ではありません。
✱✱(950〜999)朱雀天皇の皇女。冷泉天皇の皇后。

 『からねこ』という言葉自体は古くからあったけど、文献に残っているものの中では花山院の歌が最古だということなのか、花山院が最初にこの言葉を使った人だということなのか、を考えてみなければなりませんが、私は花山院が最初にこの言葉を使った人である蓋然性が高いと思います。
 さて、この時代に海外から猫が入って来るということが果してあり得たかどうかを検討してみましょう。
 遣唐使が廃止されたのが838年、それより早く新羅とは663年に百済・日本連合が新羅・唐連合に敗れた白村江の戦い以後国交断絶状態です。唯一国交があったのが渤海国ですが、渤海国からの朝貢品リストの中に猫は書かれていません。つまりこの時期に外国から猫が入って来たとは考えにくいのです。
 それでは何故花山院は『からねこ』という言葉を使ったのでしょうか?私はその理由は889年2月6日の宇多天皇の日記(「寛平御記」)にあると思います。

朕閑時述猫消息、曰驪猫一隻、太宰少弐源精、秩満来朝所献於先帝、愛其毛之不類云云。皆浅黒色也。此独深黒如墨。(中略)其行歩時寂寞不聞音声、恰如雲上之黒龍。(下略)

 宇多天皇が父光孝天皇から下賜された黒猫に対する愛情を述べた有名な一節ですが、ここでは黒猫が『驪猫』と記されています。黒という色を表す漢字が『黒』『黯』『黔』『黝』『黷』『玄』『黎』『緇』等数多くある中で、宇多天皇は何故あまり一般的でない『驪』の字を用いたのでしょうか?
 『黒』には「汚れた」「腹黒い」という意味もあるとか、『黯』には悲しみという意味があるというように良くない意味の字を避け、『玄』はつやのない黒を、『黎』は薄い黒をいうなど色そのものがイメージに合わない字も避けたのでしょう。
 『驪』の字は本来は黒馬という意味の字で、猫に使われた前例は無いようですが、『麗』という字を含む好字である上、黒い龍を驪龍(りりょう)という時には『驪』の字を黒いという意味で使うので、これに倣って『驪猫』という表現をしたのでしょう。
 そして愛猫の黒猫を「✱驪龍頷下之珠(りりょうがんかのたま)」に喩える気持もあったであろう事は、文中に「恰如雲上之黒龍」という表現が出てくる事からも窺えます。

✱「荘子」にある言葉で「黒い龍の顎の下にある宝玉」のこと。命がけで求めねばならない貴重なものの喩え。

 ところが「✱梁職貢図」に高句麗を高句驪と書いた例があるように、この時代の人にとって『驪』の字は高句麗を連想させる文字だったろうと思います。

✱中国南北朝時代の梁代、540年頃の成立。編纂は元帝蕭繹。梁に朝貢した各国使節の様子を図入りで記していて、百済国使についての記述の中に「高句驪」の字が見えます。

 次に『からねこ』の『から』とはどこの事なのかを考えてみようと思います。
 『から』と呼ばれた地域は時代とともに拡大したり移動したりしていて、古い順に並べると次のようになります。
  Ⓐ弁韓にあった加羅
  Ⓑ弁韓地方全域
  Ⓒ✱馬韓弁韓辰韓三韓全域
  Ⓓ高句麗及びその後身である渤海国を含めた朝鮮半島全域及び中国東北地方の一部
  Ⓔ中国
  Ⓕ外国

✱韓の字を『から』とも読むのはここから来ています。

 これらは時代が変わることに伴ってきっちりと意味が変わって行ったという訳ではなく、例えばⒷⒸⒹの三つの意味が並行して使われていたりします。
 このうち注目したいのは、Ⓓにおいては高句麗及び渤海も『から』と呼ばれていたということです。日本書紀神功紀に高句麗百済新羅が「ミツノカラクニ」と記されている事からもその事が判ります。
 こうしてみると、花山院は寛平御記にあった『驪猫』を「高句麗の猫」の意味に誤解し、かつ「高句麗の猫」の意味で『からねこ』という言葉を使い始めたのではないでしょうか。
 999年に、宮中で飼われていた猫が✱子猫を産んだ時に、皇太后詮子が左大臣・右大臣に命じて✱✱産養(うぶやしない)の儀を行わせ、子猫に従五位の位を授けて、馬の命婦を乳母(養育係)に任命するという前代未聞の珍事がありましたが、この時に生まれた子猫に、皇太后詮子は『こま』という名をつけています。

✱この時生まれた猫が、枕草子の「うへにさぶらふ御猫は」の段に登場する猫、命婦のおとど。
1000年3月のこと、簀の子縁の上で居眠りしている猫を見て、乳母の馬の命婦が「まあお行儀が悪い。中に入りなさい」と言いますが、猫が起きないので、猫をおどそうと翁丸という犬に「命婦のおとどを食べちゃいなさい」とけしかけました。驚いてパニックになった猫が、食事中だった一条天皇の所に逃げ込み、一条天皇は激怒して、馬の命婦を解任し、翁丸の犬島への追放を臣下に命じたという顛末が記されています。
この事件は源氏物語のから猫登場場面のモチーフになったかも知れません。
✱✱平安時代の風習の一。出産後三・五・七・九日目の夜に、赤児が丈夫に育つことを念じ、また邪霊祓いに粥を炊いて子供に食べさせるまねをし、その粥を四方に注ぐ。(角川日本史辞典)

 この時子猫を産んだ猫が、花山院が「敷島の大和にはあらぬからねこを…」の歌とともに太皇太后に贈ったあの「から猫」であった蓋然性は高いと思います。この年、太皇太后は亡くなっていますから、亡くなる前後に「から猫」は太皇太后の所から皇太后詮子に引き渡されていたのではないでしょうか。
 そしてその「から猫」の産んだ子が『こま』と名づけられたという事は、この時期の宮中では『からねこ』の『から』は『こま』すなわち高句麗渤海の意味と受け止められていたのだと思います。
 どうやら『からねこ』は舶来の猫ではなく、花山院の誤解に基づいて生まれた言葉のようですが、それではどんな猫が「から猫」と呼ばれたのでしょうか。
 寛平御記によれば、宇多天皇の愛猫は源精が太宰少弐の任期を終えて帰京の際に連れて来て、光孝天皇に献上したものを、光孝天皇から当時皇太子だった宇多天皇に下賜されたそうです。
 「皆浅黒色也。此独深黒如墨」と書かれている「浅黒色」とはいわゆる黒トラ猫の毛色を指すのでしょうが「皆浅黒色也」というのですから当時は黒トラ猫が圧倒的に多かったのだろうと思います。
 黒猫が珍しかったからこそ、源精もわざわざ都に連れ帰って天皇に献上したのでしょうし、宇多天皇も「此独深黒如墨」と記したのでしょう。
 花山院の贈った「から猫」も黒トラではない猫、黒猫・白猫など、当時は珍しかったであろう毛色の猫だったろうと思います。けれども「から猫」と呼ばれ、大切にされた結果、そうした毛色の猫が増えて珍しくなくなったために、『からねこ』という言葉も死語になって行ったのでしょう。