詩 沈丁花

  ☆沈丁花

春先
沈丁花の香りに気づいて
白と臙脂の小さな花たち
を見やる時
いつもきみのことを
想ってしまう

あれからもう
二十九年もの歳月が
過ぎてしまった

きみの就職がきまり
叔母さんの家を出て
下宿先に引越す予定だったその日
雨で引越しできなかったきみは
何もすることのない退屈まぎれに
一枚の絵葉書を書いて
ぼくに送ってくれた

沈丁花、連翹、木瓜、ヒヤシンス、
 叔母の家の庭は
 少しづつ春に占領されていきます」
で始まるあの葉書が
ぼくらの幸せな時代の
最後の憶い出になってしまったね

破局は駈け足で
あれからたった三ヶ月でやって来た

狂言を観に行った日の
きみに冷たく無視された
みじめだった記憶

その一ヶ月後
きみの本当の気持ちが知りたいとの思いをこめて
きみに贈った詩が
「単なる言葉の羅列にすぎない」と
きみにあっさり切り捨てられて
ぼくはきみを諦めた

ここまで
心がはなれてしまったきみを
もうぼくには
どうにもできないと思った

そしていつしか
沈丁花の花に
きみを偲んでいるぼくがいた

きみから
あの葉書をもらった時
ぼくは
沈丁花という花を知らなかった

なのに
図鑑で調べたわけでもないのに
ぼくはいつのまにか
沈丁花を知っていたし
沈丁花を愛していた

沈丁花はきみの花
実らなかった恋の憶い出の花