『ねこ』の語源を考える⑦

 近世以後の動詞『ねる(寝る)』に相当する古語は二つあります。『ぬ』と『いぬ』の二つです。ともに下二段活用の動詞ですから、複合語を作る時に使われる連用形は、それぞれ『ね』『いね』となります。
 『ぬ』の連用形『ね』の場合は語形上の問題はありません。ただ『ぬ』は通常男女の共寝を意味する言葉ですから、意味の上から、この『ぬ』が『ねこ』の語源である確率は低いと思います。
 一方の『いぬ』の方は眠りにつくという意味ですから、意味に関しては問題ありません。ただ語形となると、『いぬ』の連用形『いね』に愛称の接尾辞『こ』が付いた場合は『いねこ』になるので、やや問題があります。
 もし『いねこ』が『ねこ』の語源であるなら、どこかで語頭の『い』が脱落したという事になります。語頭の『い』が脱落した例としては、他ならぬ『いねる→ねる(寝る)』をはじめ、『いでる→でる(出る)』『いだく→だく(抱く)』などの例がありますが、『いねる→ねる』『いでる→でる』の場合は時代が新しすぎるので、文献以前の時代を想定しなければならない『いねこ→ねこ』の裏付けにはならないでしょう。
 『いだく→だく』はもう少し古くなって、平安時代に脱落が起きたと考えられますが、更に遡って文献以前の時代に語頭の『い』の脱落があったと確実に言えそうなのが『✱いにし(往に方)→にし(西)』の場合で、もちろん文献以前の時代ですから文献で確認できる訳ではありませんが、『にし』の語源は『いにし』というのが国語学界の定説になっています。

✱『いにし』とは「(太陽が)行ってしまう方角」という意味です。『し』には古くは方角という意味と同時に風という意味もあって『にし』は古くは西風という意味もありました。

 『いにし→にし』の例がある以上、『いねこ→ねこ』の語形変化も有り得たとは言えます。ただ、『ぬ』と『いぬ』は中世までずっと区別されていた訳で、まだ区別があった時代に『いねこ』の『い』が脱落すると『いね(寝ね)』が『ね(寝)』と同形になってしまいますから、これは考えにくいだろうと思います。
 『寝子』説については、先の滝沢馬琴や木村喜久弥氏の批判のように、よく寝るという習性が語源になっているというのは納得できないというのが『寝子』説批判の中核になっている訳ですから、そうしたネーミングの例が他にもあるのかどうかも検証してみようと思います。
 ✱いろいろな言語の猫の呼び名がどんな由来を持つのかを調べてみました。

✱英語のcat、フランス語のchat、ラテン語のcatus、アラビア語のqittなどは、動物文化史研究家の大木卓氏によれば、古代エジプト語でマングースを意味するカトルゥに由来するとのことです。

古代エジプト語のmao(現代エジプト語ではmau)、古代中国呉音のmeu、現代北京語のmao、クメール語のnyau、中世琉球語のmiya(現代琉球語ではmayâ)、奄美大島方言のmyâ及びguru、熊本県上益城郡方言のmyanなど猫の鳴き声から来ていると思われるもの。
②中国での猫の別称『家虎』『如虎』、江戸時代の東国方言の『とら』など、猫を虎になぞらえたもの。
③中国での猫の別称『鼠将』、サンスクリット語のakhubrej(アークブジュ、鼠を食うもの)のように、鼠を捕えるという特性から来たもの。
④中国での猫の別称『女奴』、英語の猫の別称pussのように、猫を女性になぞらえたもの。

 この他「清潔にするもの」「よく鳴くもの」「愛らしいもの」等がありますが、「よく寝る」という特性が語源になっているという例がありません。この点、『寝子』説にとっては不利と言えるでしょう。
 また、猫がもともと外来の動物であるという点も注意する必要があります。猫が日本にもたらされた時、決して無名の動物として来たわけではなく、その時点で既に呼び名を持っていた筈ですから、和語の範囲内だけで『ねこ』の語源を考える『寝子』説には賛同できません。