『ねこ』の語源を考える⑤

 問題の『う』ですが、源氏物語には「考える」を『かうがへる』(行幸)、「讒言(ざんげん)」を『ざうげん』(柏木)と記した例もあって、こうした撥音を『う』で表記した例が同じ源氏物語中に見いだせる点からみても、『ねうねう』が実際にはnen-nenと発音されていたことは充分有り得ると思います。
 玉上琢彌博士の「源氏物語訳注」(1970年、角川文庫)にも、ひとつの解釈としてではありますが、『ねうねう』の『う』が撥音の表記であることを示唆する記述があります。さらに玉上博士は、『ねうねう』が『寝む寝む』に懸けた懸けことば的用法かも知れないという興味深い推理も行っています。
 もし『ねうねう』が『寝む寝む』に懸けた表現であるならば、その発音はnen-nenでなければなりません。neu-neuでは懸けことば的用法にはなりませんから。そこで果たして玉上博士の推理が正しいかどうかを考えてみることにします。
 まずこの『ねうねう』の出て来る場面が、決して長い物語の中のひとつのエピソードに過ぎないような場面などでは無く、物語の転換点にあたる極めて重要な場面であることを押さえておく必要があります。それはこんな場面です。

 「桜の季節の空うららかなある日、六条院(光源氏)の屋敷に親しい人たちが集まりました。やがて六条院の息子夕霧を初めとする若者たちが寝殿の庭で蹴鞠を始めます。その中でも一際技に優れ、美しく優しい容貌で目立っていたのが夕霧の妻雲居雁(くもゐのかり)の兄で✱太政大臣の息子の柏木でした。

光源氏の最初の妻=葵の上の兄で、光源氏の無二の親友であると同時にライバル。雨夜の品定めの場面で知られる「箒木」の巻には頭中将(とうのちゅうじょう)として登場するので、一般には頭中将と呼ばれてますが、この頃は太政大臣に昇進しています。

 風に吹かれて雪のように降り注ぐ桜の花を見て、一同が蹴鞠を止めて一休みしていた時、屋敷に飼われていた小柄な唐猫が大きな猫に追われて逃げ惑います。そのうち六条院の✱若い北の方=女三の宮の部屋の簾の端が唐猫を繋いでいた長い綱に絡んでしまって、猫の動きとともにするすると簾が巻き上がり、その場に居た若者たち一同が美しい女三の宮の姿を目にしてしまいます。

✱この頃女三の宮は15,6歳くらいでまだ幼い。しかも皇女という身分から六条院の北の方(正妻)として迎えられたものの、六条院は紫の上への気兼ねもあって女三の宮の許に足繁く通うという訳にもいかない。その寂しさゆえ柏木の不義の求愛を受け入れてしまい、柏木を悲劇に導いて行きます。柏木はこの頃25,6歳、夕霧が20歳前後、六条院は41歳。

 夕霧の咳払いで気づいた女房たちが慌てて猫の綱をゆるめ、簾が降りて女三の宮の姿はやがて消えてしまいますが、柏木が猫を抱いてみると猫は女三の宮の移り香でとても良い匂いがします。
 柏木はこの日から女三の宮のことが忘れられず、けれども相手は六条院の北の方、許される恋ではないと思うにつけて、せめてあの猫だけでも手に入れたいと、女三の宮の兄である東宮に頼み込んで唐猫を手に入れます。
 手に入れた唐猫を柏木は昼も夜もそばに置いて可愛がったので、猫もすっかり柏木になついて『ねうねう』と可愛らしく鳴く。柏木はそんな猫に《✱恋ひわぶる人の形見と手ならせば汝(なれ)よ何とてなく音(ね)なるらむ》と歌いかける」

✱ままにならない恋で辛い思いをしているその恋しい人の形見と思って可愛がっているお前よ。何のつもりで『寝む寝む』などと鳴くのか。

 この後柏木はやがて女三の宮への募る思いを抑えきれず、密通の果て女三の宮は男の子を出産しますが、罪の意識に怯えた柏木は悶死してしまいます。そしてこの柏木と女三の宮の間に生まれた子=薫が宇治十帖の主人公となるのです。
 宇治十帖の主人公薫誕生の伏線となる重要な狂言回しの役を猫が果しているのが判ります。そして柏木がやがて女三の宮と密通するに至ることを、作者紫式部は『ねうねう』という擬声語表現に『✱寝む寝む』という意味をも匂わせることで、さりげなく読者に伝えているのではないかというのが玉上博士の説であるわけですが、こうして物語の流れを見た時、✱✱この説は充分納得できると思います。

✱次の『寝子』説で述べますが、この時代の『寝(ぬ)』は男女の共寝を意味しています。
✱✱今泉忠義博士の「源氏物語全現代語訳」(講談社学術文庫)では、この部分は「ねうねう(寝む寝む)」と書かれていて、明解に『う』の字を撥音に取っています。源氏物語の注釈書・翻訳書は国文学系の人が書いているものが多い中で、今泉博士は国語学者でしたから、これが撥音の表記である事にすぐに気づいたのでしょう。

 先に記した通リ、『ねうねう』が『寝む寝む』に懸けた表現ならば、『う』は撥音であり『ねうねう』はnen-nenと発音されていた筈です。そしてこのnen-nenのnenは後述する通リ、『ねこ』の語源解明のキーワードとなります。