語源を考える〜『ナナカマド』

Wikipediaのナナカマドの項目にはこんな記述がある。


語源
「ナナカマド」という和名は、“大変燃えにくく、7度竃(かまど)に入れても燃えない”ということから付けられたという説が広く流布している。その他に、“7度焼くと良質の炭になる”という説や、食器にすると丈夫で壊れにくい事から“竃が7度駄目になるくらいの期間使用できる”という説などもある。

牧野日本植物図鑑の記述
千数百種類の植物に学名をつけ「日本の植物学の父」といわれ近代植物分類学の権威である牧野富太郎が記した『牧野日本植物図鑑』は1940年に出版された本であるが、講談社の「近代日本の百冊を選ぶ」にも選ばれている。その図鑑のななかまどの項に《材ハ燃エ難ク、竃ニ七度入ルルモ尚燃残ルト言フヨリ此和名ヲ得タリト伝フ。》と記されている。

辞典における記述
以下のように、異口同音に「七度かまどに入れても燃えない」という趣旨の説明をしている。
✡七度かまどに入れても燃えないという俗説がある。(広辞苑第六版、岩波書店、2008年)
✡材が燃えにくく、七度かまどに入れても燃え残るというところからの名。(日本国語大辞典小学館、1976年)
✡七度かまどに入れても燃え残るほど燃えにくいためこの名があるという。(大辞林第3版、三省堂、2006年)
✡〈七度かまどに入れてもなお燃えない〉ということからこの和名がある。(世界大百科事典、平凡社、2007年)

実際に燃やした結果
実際にはナナカマドの薪は良く燃える。この点、『植物名の由来』(東京書籍、1998年)で中村浩は《わたしは越後の山荘で何度か冬を過ごしたことがあるが、よくナナカマドの薪をたいて暖を取ったものである。この木の材はよく燃えて決して燃え残る事は無い。》と自らの経験を述べている。鶴田知也は『草木図誌』(東京書籍、1979年)に《「燃えにくく、かまどに七度入れてもまだ焼け残るというので」その名があるとは、牧野植物図鑑のみならず、広く支持されている説である。しかし事実と合わない。…名は体をあらわさず、ななかまどは何か別の意味があるのではなかろうか。》と記し、ナナカマドが燃えにくいという説は事実ではないとしている。


この記事だけ読むと判りにくいが、後で見るように中村浩は『七日竃』由来説らしい。

「暮らしのことば語源辞典」(山口佳紀編、1998年、講談社)にはこう書かれている。


《ななかまど》
バラ科の落葉高木。語源説としては、この植物は燃えにくく、七度竃に入れてもなお燃え残るため、とするのが通説。ただし、ナナカマドはよく燃えるから事実に合わず、疑問視されている。別に、ナナカマドは木炭のよい材料になり、炭にするのに七日間竃に入れる必要があることから、ナナカ(七日)カマド(竃)が転じたものとみる説もある。しかし、「七日」はナヌカかナノカで、ナナカとはいわないから、この説も疑問が残る。〈山口佳紀〉


そしてネットの語源由来辞典はこんな感じ。


《ナナカマド》
【ナナカマドの語源・由来】
ナナカマドは、七度かまどに入れても燃え残ることからとする説が定説となっている。
しかし、燃え残るというのは、この木を竃に入れる目的が火をおこすところにあるため、木炭の原木として使用される視点で考えた方が良い。
ナナカマドは燃えにくい木で、七日間、竃に入れることで極上の炭を得ることができるため「七日竃」と呼ぶようになり、「ナナカマド(七竃)」になったと考えられる。
「七日」は「なぬか」「なのか」なので、「ナナカマド」でない点に疑問はあるが、「七」という数だけを重視したとすれば「ナナカマド」でも通じるであろう。
ナナカマドの木は食器にも利用され、堅くて腐朽しにくい木なので、竃を七回換えるくらいの期間、使用できることからとする説もあるが、竃と食器を比較対象とすることはあまり考えられず、竃と炭の関係ほど密接ではないため考え難い。


内容からみてWikipediaを見た上で書いてると思われるけど、Wikipediaにナナカマドが燃えにくいという事実は無いと書かれている点はスルーしてるね。

そして他のネット辞書は。


《ナナカマド》
 七竃。ばら科の落葉中高木。和名は、材が燃えにくく、七度かまどに入れても燃えない、燃えきらず残る事から名付けられた説や、食器にすると壊れにくい事から、かまどが七度駄目になるくらいの期間使用できるという説、炭にするには、七度焼かなければならない説、七日間かまどに入れる事で極上の木炭を得られるという説など、由来説の数が多い。
 備長炭の材料として、極上品の木炭とされている。炭の製造期間に関する由来説は、魅力がある。
〘 banmaturi のブログ〜花樹名の語源・由来を集録〙


《ナナカマドの名》
ナナカマドは炭焼きにちなんだ名
 ナナカマドは山地に自生する落葉高木で、バラ科に属している。
 …名の由来であるが、牧野富太郎博士の「牧野新日本植物図鑑」には、ナナカマドは材が燃えにくく、かまどに七度入れてもまだ焼け残るというのでこの名がついたと記されている。
 しかし、この木はそれほど燃えにくい木ではない。山村では、このナナカマドを燃料用に用いているが、よく燃えて、決して“七度かまに入れて燃やしてもなお燃え残る”ということはない。
ナナカマドという名は、ナナカという言葉とカマドという字がくっついたものである。ナナカは「7日」、カマドは「竃」のことで台所の煮炊き用のかまどではなく、炭焼きかまどであると思う。
 …この備長の極上品として知られたナナカマドは材質が硬く、これを炭に焼くには7日間ほどかまどでじっくりと蒸し焼きにして炭化させる。ふつう摂氏500度ぐらいで炭化が終わるが、800度まであげて精錬し、密閉消火したのち放冷してからかまどから出す。
 ナナカマドの炭は火力が強く、最高2000度まで熱を出すが、ふつうは700〜800度ぐらいの火力である。
 ナナカマドの名の由来であるが、この名は炭焼きと関連した名だと思う。
 ナナカマドを原木として極上品の堅炭を得るには、その行程に七日間を要し、7日間かまどで蒸し焼きにするというので、七日竃すなわちナナカマドと呼ばれるようになったのだと思う。
〘「植物名の由来」中村浩著、東京書籍出版から〙


これを読むと炭焼きの現場に取材したようで一見説得力があるように見える。ただ暮らしのことば語源辞典が指摘しているように、七日をナナカと言うだろうかという疑問が有るし、更に↓を見ると一般に炭焼きというのは竃に入れてから取り出すまで7~8日かかるもののようなのでナナカマドだけでは無いとすればナナカマドの語源としては弱いのではないか。

http://milky.geocities.jp/comet0660/sumi/mokutan01.htm


私は別の視点から考えてみた。
古語の禁止表現で『な〜そ』という言い方がある。また『なな〜そ』という言い方もある。『な〜そ』は「どうか〜しないで下さい」という弱い禁止なのに対して、『なな〜そ』は「〜するな」という強い
禁止の表現。
『〜』には動詞が入るので、『噛むな』という禁止表現は『なな噛みそ』となる。
一方、全国方言辞典(東條操編、1951年、東京堂出版)によれば長野県には禁止を表す『なな〜と』という言い方があるとのことで、これは当然古語の『なな〜そ』に由来すると思われるが、この場合は『なな噛みそ』は『なな噛みと』になる。実際には二つの用例は「ナナ行っト」「ナナやっト」といずれも音便化しているので、『なな噛みと』を音便化させると『なな噛んど』となる。

ナナカマドの実は鳥はついばむけれど人間には苦くて食用には適さないようだ。

http://www.geocities.jp/kinomemocho/sanpo_red_fruits.html

そこで苦いから噛むなよという意味の『ななかんど』がこの植物の名として広まり、やがて『かんど』の部分が竃を連想させて『ななかまど』と呼ばれるに至ったのではないかと私は考える。

語源を考える〜『つたなし(つたない)』

『拙し(口語:拙い)』の語源について、日本語源大辞典(前田富祺監修、2005年、小学館)にはこうある。


《つたな-い》
【拙い】
能力や品格など、物事が劣っているさまについて広く用いる。✦(初出)西大寺本金光明最勝王経平安初期点 830頃
[語源説]
❶ツト(勤)ナシの意〈大言海〉。
❷ツテナシ(着手无・伝無)の義〈和句解・日本釈名・言元梯〉。人に伝えるべき智も巧もない意で、ツタフナシ(伝無)の義〈名言通〉。本来は悪運の有様をいうツタナシの義から〈国語の語根とその分類=大島正健〉。
❸ツタはチ(霊)から派生した語か〈日本古語大辞典=松岡静雄〉


この語彙の語源説は「暮らしのことば語源辞典」にもネット辞書にも無いので、確認できた語源説は日本語源大辞典のものだけだけど、どれもこじつけっぽい。

一方、時代別国語大辞典上代編(1967年、三省堂)には〔播磨風土記の「都太岐」「怯(つだき)」から形容詞ツダシの存在が想像される〕との記述があり、ツダシの意味についてはツタナシと同義かとある。
ツダシとツタナシが同義語ならば、ツタナシのナシは『無し』ではなく、程度が甚だしいことを表す接尾辞の『なし』(キタナシ・イラナシ等のナシ)と考えられる。
また書紀等に出て来る「細かく切れ切れ」の意のツダツダという語彙があり、これは日葡辞書のヅダヅダを経て現代語のズタズタに繋がっている。

こうしてみると『つたなし』は「ツダツダのツダ+甚だしいの意のナシ→ツダナシ→ツタナシ」という経緯で成立した語彙ではないか。

ただ問題点がある。「類聚名義抄四種声点付和訓集成」(望月郁子編、1974年、笠間書院)をみると『ツタナシ』(拙・怯・劣・短 etc. )のツタのアクセントは上上であるのに対して、『ツダツダ』(寸)のアクセントは平平で違っている。
『スタル』(廃)のスタのアクセントが上上なので、あるいはこちらがツタナシのツタの語源かも知れない。

語源を考える〜『ぐれる』

「悪の道に入る」の意味の『ぐれる』の語源について「暮らしのことば語源辞典」(山口佳紀編、1998年、講談社)には、こう書かれている。


《ぐれる》
不良になる。悪の道に入る。
 語源は、グレハマのグレに活用語尾をつけて動詞化したものという。グレハマはグリハマの転で、グリハマはハマグリ(蛤)をひっくり返して成った語。ハマグリの二枚の貝殻はぴたりと合わさるものだが、ひっくり返すとどうにも合わなくなることから、物事が食い違うことをいう。江戸末期の歌舞伎『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』に「それから、島で窮屈な勤めが嫌さにぐれ始め」の例がある。〚佐々木文彦〛
✻青砥稿花紅彩画 江戸時代の歌舞伎世話物。通称『白浪五人男(しらなみごにんおとこ)』。河竹黙阿弥作。日本駄右衛門・忠信利平・南郷力丸・赤星十三郎・弁天小僧の五人の盗賊を主人公とする白浪物の代表作。文久二年(1862)初演。


またネットの語源辞書「語源由来辞典」にはこうある。


《グレる》
【意味】グレるとは、少年や青年が、反社会的・反抗的な行動をとるようになること。不良になること。
【グレるの語源・由来】
グレるは「ぐれはま」の「ぐれ」に活用語尾「る」を付け、動詞化したものである。
「ぐれはま」は、「蛤(はまぐり)」をひっくり返して成った語「ぐりはま」の転である。
これらの語は、ハマグリの貝殻をひっくり返すと合わなくなることから、物事が食い違うことを意味していた。
江戸時代末期の歌舞伎『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』には、「それから、島で窮屈な勤めが嫌さにぐれ始め」といった例が見られる。


これ、完全に「暮らしのことば語源辞典」のパクリですね。出典ぐらい書いとけよ、全く。
さらにネットの語源辞典。


《ぐれる》
不良になること。
【ぐれるの由来・語源】
「あてが外れる」という意味の俗語「ぐりはま」が訛った「ぐれはま」を略したものに、名詞を動詞化する接尾語『る』をつけたもの。
「ぐりはま」は「ハマグリ(蛤)」をひっくり返した語で、ハマグリの2枚の貝殻はピタリと合わさるものだが、ひっくり返すとどうにも合わなくなることから、物事が食い違うことをいう。また、不良行為・非行行為をするようになるという意味でも、江戸時代から用いられるようになった。
現代ではグレるとカタカナで表記することも多い。
〘由来・語源辞典〙


《ぐれる》
生活態度が悪くなり不良になること。また、見込みがはずれること。
【語源】
〈1〉ハマグリ説
 二枚貝であるハマグリは、対の殻以外とは決して重なりません。その事を利用して、平安末期の貴族の間で「貝覆い」という遊びがはやりました。今のトランプの「神経衰弱」のように内側の絵柄を合わせていくというルールです。ハマグリが合わないことを倒語にして「ぐりはま」と言うようになり、それが「ぐれはま」と訛って、「ぐれはまる」→「ぐれる」という動詞として使われるようになりました。
〈2〉繰る説
 繰る、狂う、という表現が変化して「くる」「くれる」と使われていたのが、悪いイメージに合う濁った音で「ぐれる」と表現されるようになり、一般に広まりました。
〈3〉ぐれぐれ説
 ぐらぐらする、ぐらつく、はずれる、という意味の「ぐれぐれになる」という表現が略されて「ぐれる」となりました。
✻豆知識
 「貝覆い」のことを、現在では「貝合わせ」と混同している人がいますが、両者はルールが全く違います。「貝合わせ」は、中世貴族社会で盛んだった「合わせもの」の流れを汲んだ室内遊戯です。左右に分かれてお互いが持ち寄った珍しい貝を出して、形や色彩等を比べて、それらにちなんだ和歌を詠み「貝と和歌との総合で採点される」という遊びでした。持ち寄る貝の種類は、巻貝だろうが二枚貝だろうが形が美しければ何でもよかったのです。一方、「貝覆い」はハマグリだけを用いた遊びで、ハマグリが対の殻以外とは決して重ならない事を利用してぴたりと合う貝を探すという遊びです。この「必ずお決まりの一対」というハマグリの特徴は、貞節の象徴や夫婦和合の印とされ、近世では貝桶が輿入れの調度品として準備されて嫁入り行列の最初に運ばれるようにもなりました。〘あははっ 語楽〙


《ぐれる》
ぐれるとは不良になること。
【年代】江戸時代〜
『ぐれる』の解説
ぐれるとは「あてが外れる」という意味の俗語『ぐりはま』が訛った『ぐれはま』を略したものに、名詞を動詞化する接尾語『る』をつけたもので、不良行為・非行行為をするようになるという意味で古く江戸時代から使われている。『ぐれはま』自体は「不良」という意味を持っていない。一説にはぐれるという行為が「親が望む子の姿から(あてが)外れた」ということから、動詞化の際に「不良」という意味をもったと言われている。また、現代ではグレるとカタカナを交えた表記を使うことも多い。
〘日本語俗語辞書〙


グレる【ぐれる】の名前の由来語源・成り立ち
【意味】
ぐれるとは、不良になる。生活態度が地道でなくなる。不良化する。
【語源・由来・成り立ち】
ぐれるの語源・由来について、貝のハマグリが起源である。つまりハマグリは一つ一つ微妙に形が違っており、他のハマグリの殻とは合わない。そこから、「貝合わせ」と言う遊びができた。
そこで、ハマグリ(合う)⇒グリハマ(チグハグでかみ合わない)⇒グレハマ⇒グレと変化していった。
江戸時代は、物事が食い違ったり、当てが外れるときに使ったとされる。愚連隊(ぐれんたい)などという表現もこの言葉の変化である。
【実例・用例】
✶別れた妻に送る手紙(1910)〈近松秋江〉「国で卒業して、東京に出てから、ぐれるといふこともあるかも知れぬが」
✶生活の探求(1937〜38)〈島木健作〉四「あいつは、ぐれちゃったらしいんでね」
【漢字辞典】
「グレる」「ぐれる」の漢字表記は不明。
〘ユライカ〙


こうして見ると〘あははっ 語楽〙だけが自分で調べたり考えたりしている様子が窺えるけど、他はお手軽に他人の書いたものを引用して博学ぶってるだけだね。

一方、日本語源大辞典(前田富祺監修、2005年、小学館)にはこうある。


《ぐれ-る》
▼「ぐれ」の動詞化したもの。「ぐれ」は「ぐりはま」が変化した「ぐれはま」の略。
㈠予期した事が食い違う。見込みがはずれる。✦(初出)人情本・氷縁奇遇都の花 1831
㈡生活態度が地道でなくなる。不良化する。✦(初出)滑稽本浮世床 1813-23
[語源説]
❶ハマグリ(蛤)を逆にしたグリハマという語をグレハマと訛り、それが動詞化されたもの。ハマグリは対でない他の貝と合わせると、食い違うところから〈猫も杓子も=楳垣実〉。
❷マグレルの上略〈大言海〉。
❸クル(繰)から〈俚言集覧〉。
❹ぐれぐれになる、はずれる、ぐらつくの意〈江戸語大辞典=前田勇〉。


ここで気がつくのは㈡の意味の方が㈠よりも初出が早いということ。もしグリハマ由来なら先に㈠の意味が現れて後から㈡の意味が出て来るはずなのにそうなってない。ということは二つの『ぐれる』は同音異義語であって由来が違うのではないかと疑われる。


そこで全国方言辞典(東條操編、1951年、東京堂出版)を見たらこんな語彙が出て来た。


ぐれ…乞食。こじき愛媛県南部・高知県宿毛市
くれーずかし…徒食者。長野県北佐久郡
ぐれたや…浮浪人。群馬県吾妻郡。
ぐれっぱち…うそ。群馬県碓氷郡
くれはし…端。はしくれ。「人間のクレハシ」壱岐
ぐれる…①怠ける。長野県上田。②家を留守にして出歩く。大分。


どうやら元々方言で「遊び歩く」というような意味の『ぐれる』という言葉があり、それが江戸に入って江戸でも使われるようになったのではないか。その場合の『ぐれ』は「はしくれ=取るに足らないもの」の意味だったのではないかと私は考える。

 

詩 予感

  ☆予感

きみは本当に不思議な人だ
大学入学直後
きみと はじめて話した
十九のときから
ぼくは そう感じてた

ぼくが一浪したと言うと
きみは
『もし今年も受からなかったら どうしてた』と尋ね
ぼくは
『たぶん二浪していたと思う』と答え
すると きみは
『大学ってそれほどの価値があるものなのかしら?』と
言ったね

それを
皮肉屋さんの口調で言うわけでもなく
ちょっと相手をやりこめて
優越感にひたろうとしているふうでもなく
きみは本当に真摯に答えを求めていた

そんな人に出遇ったのは はじめてだった
この人は 普通の人とはちがう
この人は ぼくの人生の中でとても大切な人になる
━━はじめて話したきみに ぼくはそう予感していた

それなのに
どうして きみと
わかれてしまったのか
それも
ぼくの方から
わかれてしまったなんて

きみとの再会の日
実はきみに逢えるなんて
ぼくは少しも思っていなくって
きっと
少しでもそれを予想していたなら
ぼくは行かなかっただろう

きみは怒っているだろうし
恨んでいるだろうし
二人の間にはきっと
気まずい空気が流れて
━━と
すっかり ぼくは思いこんでいたから

きみに
笑顔で迎えてもらえるなんて
心底 思ってもいなかった
あの笑顔を見た瞬間
きみの ぼくへの思いに
やっと ぼくは気づかされた
あまりにも 遅すぎたけど

はじめて出遇ったときの予感が
今ごろになって よみがえって来る
きみは やはり大切な人だったと

それなのに
どうして きみと
わかれてしまったのか
それも
ぼくの方から
わかれてしまったなんて

いま
あの時の答えを思いだす
『大学そのものに
価値があるとか 無いとかじゃなく
ぼくらが 大学生活を
価値あるものに するかしないかが
問題なんじゃ ないだろうか』
ぼくは確か そう答えたと思う
その答えは 今も変わらない
でも ひとつ つけ加えることがある

ぼくにとっては
きみに出遇えただけで
大学に行った価値があったのだと

詩 宝石の時間

  ☆宝石の時間

二十六年ぶりに きみに出会えて
これからは
三年ごとに会えることに なったものの
ぼくらはもう五十一になってしまった

のこされた人生
会えるのは せいぜい十回
その一回一回が
宝石のような時間になるね

昔の二人は
気持の行き違いの連続で
一緒にいても
つらい時間ばかりが長く
楽しい時間は
ほんの僅かしかなかったね

二人とも無口で意地っぱりで
言いわけがましいことなんか
言いたくなかったし
そうして小さな誤解から
溝がどんどん広がってゆくのを
どうすることも できなかった
本当は愛していたのに

はじめてだったかも知れないね
このあいだ きみと過した時間
あんなにも楽しく
時が流れて行ったのは

のこされた人生
会えるのは せいぜい十回
その一回一回を
宝石のような時間にしようね

詩 再会

  ☆再会

四半世紀の時の流れのはてに
こんな喜びの日のあることを
昨日までのぼくに
どうして想像できたろう

ぼくの中で
あなたは遠い人だったから

あなたを遠い人とぼくは思いこんでいたから

あなたを遠い人と
ぼくは思いこもうとしていたから

四半世紀の時の流れをこえて
あなたは突然
ぼくの前にあらわれた
こぼれるような笑顔とともに

何の
心の準備もなかったぼくは
思いがけず
本当に まったく思いがけないことに
とっさに
せいいっぱいの笑顔を
あなたに返していた

そのとき はじめて
ぼくには わかったのだ
あなたが どんなに深く
ぼくを思ってくれていたかが
ぼくの中で
あなたが かけがえのない人であることが

ああ
ぼくのソルヴェーグ
かなしいことに
覆水を盆に返すことは もはやできない
そして
盆を覆したのは このぼくだ

四半世紀の昔 ぼくのしたことを
とがめだて一つしなかった
あなたの はかりしれない優しさに
ああ
ぼくは いったい何を返したら
いいのだろう

詩 沈丁花

  ☆沈丁花

春先
沈丁花の香りに気づいて
白と臙脂の小さな花たち
を見やる時
いつもきみのことを
想ってしまう

あれからもう
二十九年もの歳月が
過ぎてしまった

きみの就職がきまり
叔母さんの家を出て
下宿先に引越す予定だったその日
雨で引越しできなかったきみは
何もすることのない退屈まぎれに
一枚の絵葉書を書いて
ぼくに送ってくれた

沈丁花、連翹、木瓜、ヒヤシンス、
 叔母の家の庭は
 少しづつ春に占領されていきます」
で始まるあの葉書が
ぼくらの幸せな時代の
最後の憶い出になってしまったね

破局は駈け足で
あれからたった三ヶ月でやって来た

狂言を観に行った日の
きみに冷たく無視された
みじめだった記憶

その一ヶ月後
きみの本当の気持ちが知りたいとの思いをこめて
きみに贈った詩が
「単なる言葉の羅列にすぎない」と
きみにあっさり切り捨てられて
ぼくはきみを諦めた

ここまで
心がはなれてしまったきみを
もうぼくには
どうにもできないと思った

そしていつしか
沈丁花の花に
きみを偲んでいるぼくがいた

きみから
あの葉書をもらった時
ぼくは
沈丁花という花を知らなかった

なのに
図鑑で調べたわけでもないのに
ぼくはいつのまにか
沈丁花を知っていたし
沈丁花を愛していた

沈丁花はきみの花
実らなかった恋の憶い出の花